【二〇一五年 杏】
父の事件が発覚してからというもの、修司は何度も私に連絡をくれた。
けれど、私はそれをすべて無視していた。父の事件について調べることで頭がいっぱいだったし、新のことを守らなければという責任感もあった。
何より、私自身があまりに疲弊していて、誰かと向き合う余裕なんて持てなかった。
でも、修司はあきらめなかった。
どんなに冷たく突き放しても、彼は決して離れていかなかった。私の周りからはすべての人たちが遠ざかっていった。
先生や親せき、周りの大人たち……友達さえも。けれど、修司だけは変わらずに私を追いかけ続けた。
それが、どれほど嬉しかったか。
救いになったか――突然、スマホが震えた。
ポケットから取り出すと、ディスプレイには「修司」の名前が表示されている。
私はためらいながらも、通話ボタンを押した。「……はい」
『あ……杏? よかった。
あのさ、もしよかったら二人で会わない?』「え……」
返事をためらう私に、修司は慌てたように続ける。
『あ、いやなら、別に……』
「いいよ。……じゃあ、いつもの公園で」
電話を切ったあと、私はゆっくりと立ち上がり、出かける準備を始めた。
「姉ちゃん、どこ行くの?」新の声に振り返ると、彼は心細そうな表情でこちらを見ていた。
「ちょっと、そこまで。修司と少しだけ会ってくるよ。
すぐ戻るから……誰か来ても、絶対に出ちゃだめだからね」頭を撫でて笑いかけると、新は小さく頷いた。
「また行っちゃうんだ?」
拗ねたように視線を逸らすその仕草が、胸に刺さる。
最近、私はたまに修司と会うようになっていた。
それが新にとって、どれだけ不安を与えているか――痛いほどわかっている。新は誰とも会わず、学校にも行かなくなり、ずっと
【二〇一五年 杏】 後部座席で待つ私の隣へ、修司の父親はゆっくりとした動作で乗り込んでくる。 扉が閉まると同時に、私は食ってかかった。「さっきの話はどういうことですか? いろいろバレて困るのはあなたの方じゃないですか!」 矢継ぎ早に言葉をぶつける私に対し、 彼は眉ひとつ動かさず、「ふん」と鼻で笑い、吐き捨てるように言った。「何も知らない奴は幸せでいいな。 おまえの父がどんな思いで罪を受け入れたのかも知らないで」 その目は、人を見下すような冷たい色をしていた。 いったい何なのだ、この男の余裕は――。 息子の罪をなすりつけたことがバレたというのに、慌てる気配すらない。 私の思考を読み取ったかのように、彼は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。「教えてやろうか……おまえたちが、今どんな状況に置かれているのかを」 低く静かな声が、車内の空気を重たくする。 私は無意識に肩を強張らせながら、その続きを待った。「おまえの父は、自ら罪をかぶった。私の息子、雅也のな」 くっくっと、楽しげに喉を鳴らしながら笑うその顔を、きつく睨みつける。 こみ上げる怒りを抑えきれず、私は叫ぶように言った。「だから、それを私が世間に公表してやるって言ってるんです! そしたら、あなたたちは終わりよ!」 だが次の瞬間、修司の父親の目つきが鋭くなる。 さっきまでの余裕はそのままに、目だけがまるで刃物のように光った。「公表すれば……おまえたちも、父親も、終わるぞ。……いいのか?」「な……どういうこと?」 私は息を詰め、震える声で問い返した。 彼は深く大きなため息をつくと、大げさに天井を仰いだ。「これだから、バカは困る。 よーく考えてみなさい。君の父親が、あんなにも頑なに口を割らない理由を」 返す言葉が出てこない。私はただ、無言で睨む。「親にとって、一番大切なものは?」
【二〇一五年 杏】 私はあれから、必死になって雅也のことを訴え続けた。 警察にだって何度も足を運んだ。週刊誌を扱う出版社もいくつか回った。 けれど、どこへ行っても結果は同じだった。皆、まるで見えない壁でもあるかのように、口を閉ざして何も答えようとしない。 誰もが何かを隠している――そんな不気味で異様な空気がそこにはあった。 警察内部や出版社にすら、修司の父親の影響が及んでいるのかもしれない。 あの男が裏から手を回し、誰も何も言わないようにしている。 そんな卑怯で卑劣なことが、まかり通ってしまうなんて。 呆然とすると同時に、抑えきれない怒りが全身を駆け巡っていった。 許せない。 絶対に許せない! 次の父の面会日。 私は意を決して、すべてを父に話した。 雅也のこと、修司の父親のこと。 そして、父がなぜ沈黙を貫いているのかを必死に問いかける。「お父さん……! なんで何も言わないの? あんな奴らのために、なんで!」 父はしばらく驚いたように目を見開いて私を見つめていた。 しかし、その驚きもすぐに消え、何事もなかったかのように目を伏せる。 いつものように無表情に戻り、口を閉ざした。 どうして? どうして黙ったままなの? 私は叫び続けた。 父さんは、知っているはずなんだ。 雅也が真犯人だってことを。 でも、なぜ何も言わない? どうして罪をかぶろうとするの? 私にはわからなかった。 だけど、確信はあった。 あいつらに、何か重大なことで脅されているのだ。 だから、父は口をつぐみ続けている。 でも、それが何なのかまではわからなかった。何度問い詰めても、父は小さく首を振るだけだった。「大丈夫だ」と言いたげな、どこかあきらめにも似た優しい目を向ける父。 私は、何もしてあげられない自分に
【二〇一五年 杏】 「……杏?」 修司が顔を覗かせる。 目が合った瞬間、彼はぱっと笑顔を浮かべた。 「よかった、いたんだ。ちょっと遅いから迷子になったのかと思ってさ、心配したよ」 いつもの優しい笑顔だった。 何も知らない無邪気な顔。 その無防備な笑みに、胸が締め付けられた。 やめて。 そんなまっすぐな表情で、そんな瞳で――。 視線を逸らした。 修司の目を、まっすぐに見ることができなかった。 喉がひどく渇いている。 閉じてしまった喉を懸命に開きながら、かろうじて声を絞り出した。 「……ごめん。ちょっと、気分が悪くなっちゃって。今日はもう、帰るね」 声は震えていた。 笑ってみたけれど、うまく笑えなかった。 「ご家族に……よろしく伝えて」 それだけ言うと、私は駆けだした。 もう限界だった。 「杏!?」 背後から呼び止める声が聞こえたが、それを振り切るように走った。 修司の家の門を抜けて、無我夢中で走り続ける。 涙が溢れてきた。 顔に当たる冷たい風が、その涙を拭い去っていく。 涙はとめどなく溢れ、もう止まらなかった。 息をするのも苦しくて、喘ぐように息が吐き出される。 私は道の途中で立ち止まり、その場に膝をついた。 しゃがみこんだ瞬間、嗚咽が喉から漏れ出す。 泣いているのか、叫んでいるのか、わからない。 声にならない声が、私の奥からあふれていく。 手で顔を覆い、必死に押し殺そうとするけれど、無駄だった。 ――ふと、どこからか、クリスマスソングが聞こえてきた。 遠くの店から流れているのだろう。 にぎやかで、楽しげで、あたたかなメロディー。 その音を耳にした瞬間、私はふっと笑ってしま
【二〇一五年 杏】 二人はどこへ消えたのだろう。 広すぎる屋敷の中を探すのは、想像以上に骨が折れそうだ。 けれど、先ほど修司の父と雅也が部屋を出てから、まだそれほど時間は経っていない。遠くまで行っているはずはないと、自分に言い聞かせた。 静かに足を止め、目を閉じる。少しの風の音にも耳を澄ませた。 ――聞こえる。 かすかに、人の話し声がした。 風のざわめきに紛れるような、小さな小さな声。 慎重にその方向を探る。 応接室から三つ隣の部屋。 その扉は、ほんのわずかに開いていた。 隙間からこぼれるぼそぼそとした声に、私は吸い寄せられる。 胸の奥で鼓動が高鳴る。 そっと足音を殺しながら、扉へと近づいていく。 手のひらは汗ばみ、喉が乾く。 深呼吸を一つして、わずかな隙間にそっと目を寄せた。 そこには、修司の父と雅也の姿があった。 重く張り詰めた空気の中で、二人は向き合いながら言葉を交わしている。「おい、親父……大丈夫なのか? あの子って……」 雅也の声は低く、苛立ちが滲んでいる。 顔には焦りが色濃く浮かんでいた。「わかっている。……心配はいらん。 “あのこと”は、まだ二人とも気づいていない」 修司の父は、雅也とは対照的に、落ち着き払った様子だった。 椅子に深く腰を下ろし、まるで全てを掌握している者のような余裕を漂わせている。 ――あのこと。その言葉に、私の心は大きく揺れた。 まさか、事件のこと……?「でもさ、杏って子がもし気づいたら……」「その時は、私がなんとかする。 ……おまえは余計なことを考えず、いつも通りにしていればいい」 父親は微かに笑みを浮かべながら、雅也に言い聞かせるように告げた。 雅也はほっとしたように肩を下ろし、けれど、なおも不安げな視線を父に向ける。「だけ
【二〇一五年 杏】「佐原……?」 続けて、低い声が聞こえた。 振り向くと、後ろから雅也がゆっくりと近づいてくる。 彼もまた、私をじっと見つめていた。 その目は、以前会ったときよりも鋭さを増し、あからさまに警戒心を帯びている。 私の名前を反芻するように口にしながら、何か考えているようだった。 息が詰まる。 気づいたのだろうか……私が誰なのかを。 まさか、もう……? 佐原、という名字。 それだけで、父のことを思い出した? だとしたら、雅也はやっぱり――。 でも、ここで動揺するわけにはいかない。 まだ、私の正体がバレているという確証はないのだ。 平静を装うしかない。 心の内をぐっと抑え、無理やり笑顔を作った。「お兄さんにはこの前、お会いしましたよね」 なるべく明るく、柔らかく声を出す。「改めまして、佐原杏と申します。修司さんとお付き合いさせていただいています」 その瞬間、二人の表情がピクリと動いた。 激しい動揺が感じられ、まるで何かを隠そうとするように目が泳いだ。 それはほんの一瞬だったけれど、私にははっきりと見えた。 やっぱり――。 この人たちは、何かを知っていて、それを隠している。 そう確信した。「どうしたの? みんな座ろうよ」 修司の声が、その異様な空気をあっさりと拭い去るように響く。 無邪気な笑顔で私の手を引き、ソファーに腰を下ろすよう促してくれた。 私はその手に導かれるまま座り、そっと息をつく。 修司の何気ない優しさが、今は胸に痛い。 何も知らなかったあの頃には、戻れない。 もう、素直に修司と向き合うことが、できないかもしれない。 何も知らない方が……幸せだったのかも。 でも、それでも……「父さんも、兄さんも!」
【二〇一五年 杏】 私はさっそく修司に連絡を取り、「家に行ってみたいな」と、なるべく自然に頼んでみた。 胸に罪悪感が広がる。 私、今、好きな人に嘘ついてる。 まさか、彼の兄である雅也のことを探るために、修司を利用するなんて。 ……絶対に気づかれてはいけない。 ただ、今は情報がほしい。 それだけだった。 そんな私の葛藤をよそに、修司はあっさりと了承してくれた。「もちろん! 杏が来てくれるなんて、すごく嬉しいよ」と、まるで子供のように無邪気な笑顔で答えてくれる。 その笑顔に、ズキンと胸が痛む。 微笑み返しながらも、内心はすごく苦しくて切なかった。 絶対に、悟られてはいけない。 そう、自分に言い聞かせた。「ここが俺の家だよ」 そう言って、修司が誇らしげに指し示したのは、白い豪邸だった。 高くそびえる鉄製の門がゆっくりと開き、その先にはまるで映画のセットのような広々とした庭園が広がっている。 手入れの行き届いた芝生の間には、色とりどりの花々が植えられ、静かに風に揺れていた。 正面にそびえる邸宅は、清潔感のある白壁と美しい装飾が施された窓枠が印象的で、どこか格式高ささえ感じさせる。 ただそこに立っているだけで、息が詰まりそうになる。 玄関の扉を抜けると、目の前に広がるのはまるでホテルのロビーのような空間だった。 高い天井、磨き上げられた大理石の床。 そのどれもが非現実的で、私は言葉を失った。「今日は兄さんと父さんもいるから、紹介するね」 軽やかな修司の声に、私はハッと我に返る。 ……聞いてない。 胸がぎゅっと縮む。 できることなら、まずは修司と二人きりがよかった。 雅也だけなら対処できるかとも思ったが、父親までいるとは。 想定外だ。 冷静でいられる自信は、なかった。が、ここまで来たらもう